風に靡く、地平線の雑草

JKです。趣味は独りで寺社巡り。喫茶店で読書をするのも好きです。

通信量制限、やばし。

スマホの通信量制限が後少しで来ます。

 

そのため、当分はブログの更新を二日に一回にしようと思います。

 

「なぜ、八月の中旬で通信量制限?」と思われる方もいるかと思います。

 

理由は、ずばり、

ネットニュースの見過ぎです。

私のスマホは、やたらとSafariの使用ギガ数が多いです。

 

制限なんてなかったら良いのに!

 

そもそも、なんで制限があるのか?

と、少し考えてみました…

 

何事にも、限度ってありますよね。

食べすぎたらお腹がいっぱいになる、もっと食べたいのに…

買いすぎたらお金がなくなる、もっと買いたいのに…

 

制限は、弱い私たちを正しい道(?)に引き戻してくれるものなのかもしれません。

 

 

通信量制限を憎むのをやめ、もう諦めようと思う、地平線の雑草であった。

 

 

五山の送り火、見ました

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写真は失敗しましたが、「法」です。

 

ホテルから見たのですが、綺麗だったけどなんか呆気なかった、というのが印象です。人が多かったのもありますし。

 

テレビで見る方が多分綺麗に見えると思います。

 

星だと思ったらヘリコプターだった、ということが何回かあるくらいヘリコプターも飛んでいました。

 

来年からはテレビでみたいですね!

 

先祖の霊が送られていることを祈りつつ、この記事を終わらせようと思います。

 

 

 

 

雨の日に車窓から

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今日は関西地区は雨が降っています。

今日は京都でとある塾の講習を受け、今はそれが終わった後の帰りの電車の中です。

 

電車はすごいスピードで次の駅に向かっています。が、すごいスピードとはいっても時速130キロくらい。

時速800キロくらいの飛行機にはかないません。だから、飛行機のように、窓についた水滴が進行方向と逆方向に流れて消えることはありません。

 

ずっと水滴は窓についたままで、車窓は、電灯に照らされてきらりと光る水滴とともに、外の景色を私たちに見せてくれます。

進行方向と逆方向に流れて行く景色は、変わらぬ速さで、めまぐるしく変わっていきます。でも、景色は変わっても、どこもどんよりしているのは同じ。急に晴れたりはしませんよね、当たり前ですけど。

 

なんか私の人生みたいですね…

 

どこもどんよりした景色しか見えない

 

雨粒、とかいう車窓の景色を遮るものすらアクセントになっている…

 

 

とても暗い話になってしまいました!

 

でも、雨はいつかは止んで、私が知らないときに、車窓に明るい日差しに差し込む時が必ず来るでしょう。車窓は虹だって映し出すかもしれません。

 

そう信じて

 

その電車を降りようとする地平線の雑草であった。

 

 

ブログをはじめて約一ヶ月がたった日に思うこと

読者数は1ダース、PVもゼロでなかったら嬉しい!というくらいで、ブログを誰かのために書く、というより、自分のために書いている地平線の雑草ですが、なんとか一ヶ月の間続けることができました。

 

最近は多忙で、毎日10分足らずで書いているこのブログ、量を重視し質を軽視してきたせいで中身のないものとなってしまっているのが現状です。

 

今後の課題はいかに短い時間で質の良いものをかけるか、です。

 

量と質の両立は難しいということが分かった一カ月を、今後に生かしていけたらなあと思っております。

電車で何をしようか…

今日は暇なので京都に行くことにしました。

 

そして、今考えていること

 

電車の中で何をするか…?

 

読書、スマホ、単語帳…

 

したいことはいっぱいあるのに、なんか今は何もしたくない気分です。

 

最近そういう気分になることが多いです、夏バテでしょうかね?

 

以上。

六月買松風人間恐無価(ろくがつにしょうふうをかわばにんげんおそらくあたいなからん)

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六月買松風人間恐無価(ろくがつにしょうふうをかわばにんげんおそらくあたいなからん)

 

以前、臨済宗のどこかのお寺に参拝した時に頂いた栞に書いてあった禅語です。

 

この言葉の意味は簡単に言うと、「現代の私達は文明の利器に慣れてしまって自然に感謝する心などを失いがち。暑い時には暑さを感じても良いのではないか?そして、自然に対する心の余裕と謙虚さを取り戻す必要があるのではないか?」ということらしいです。

 

最近はどの施設に入ってもクーラーはガンガンでとても涼しいです。電車やバスなんかは逆に寒いくらいです、たまに夏であることを忘れるくらい。

そう思うとやはり私は自然に感謝する心を忘れているかもしれない、と思います。

夏があること、冬があることは当たり前ではないんだ、と思って生きてみても良いかもしれません。

  

私は暑いのは嫌いですが、じりじりと太陽の照りつける誰もいない道をあてもなく歩くのは好きです。子供の頃の楽しかった思い出、辛かった思い出などを思い出せて、しみじみとした気分になれるからです。

そういう時に夏があってよかったと思います。

自然の力に感謝ですね。

 

と、クーラー27℃設定の部屋で私は思うのであった。

 

 

 

泥のついた子供〜パラドックス〜

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今日は私が面白いと思った、とあるパラドックスについて書きたいと思います。

 

Q 子供たちが幾人か大きな円の形に集められた。みな自分の顔は見えないが、自分以外の子の顔ははっきりと見える。先生が「顔に泥がついている子が少なくとも1人います。泥のついている子は出ていらっしゃい」といった。反応がなければ、同じ声がけが繰り返される。パラドックスは以下のとおり。n人の子供に泥がついているとする。n回言われるまで誰も前に進みでずに、次の声がけでn人全員が一斉に進みでる。しかし、「泥がついている子が少なくとも1人います」といわず、単に「泥がついている子は進みでるように」とだけ繰り返すと、進みでる子どもは1人もいない。子供たちが見えているものは同じなのに、先生が何をいうかでどうしてこのような差が生じるのか。

 

 

 

ヒント

では、3つほどヒントを書きます。もう少し考えたい方は①だけ見てください。

①このパラドックスで、子供たちは円の大きさに関わらず他の子の顔が見えます。つまり、「自分の顔は見えないが他の子の顔は見える」ということです。

 

②例えば、泥のついている子供が1人だけである場合、先生が「泥のついている子が少なくとも1人いますよ。」と子供たちに言うと、泥のついている子は「泥のついているのは自分だ」とすぐわかります。なぜなら、他の子の顔には泥がついていないからです。

逆に、「泥がついていない子が少なくとも1人いる」ということを知らなければ、この子は泥がついているのが自分だとは推測できないということです。

 

③2人の場合も同様に考えてみて下さい。

 

泥のついている2人の子は、先生の言うとおり少なくとも1人の顔に泥がついているのを自分の目で見ています。そのため、先生が最初に声がけした時に、進みでる子はいません。

 

(今から、泥のついている子のうちの1人の目線で書きます。)

でも、誰も進みでない。泥のついている子供が1人だったのなら、今私が見ている泥のついている子が前に出るはずだ。…。

あー、だったら、あの子以外に泥のついている子がいるはず。

でも、私には、泥がついている子は1人しかわからない…

あ、私の顔に泥がついているんだ!

 

ということで、2人ともこういう推測をして、前に進みでます。

先生が「少なくとも1人の顔に泥がついています。」と言わないと、子供たちは誰も自分の顔に泥がついていると推測できません。

 

解決策

泥のついた子が2人という場合で考えたように、泥のついた子が「自分だ」とわかるのは、最初誰も前に出なかったことからの推理によります。2回目に言われたら、「泥のついた子が1人だけ」という仮説は覆されます。最初の声がけで、泥のついた子は、他の子が何も反応しなかったことに気づき、2回目の声がけで、泥のついた子が2人いるとわかります。

 

続いてはn人の場合です。

n人の泥のついた子は「泥のついた子は多くてもn人いる」とわかります。しかし、n-1回の声がけでn-1人の泥がついた子が前に出なくて初めて「泥のついている子は少なくともn人いる」とわかります。泥のついていない子の場合は、ちょうど逆です。はじめ、n人の泥がついた子が見えます。だから「泥のついた子は少なくともn人、そして多くてもn+1人いる」とわかります。しかし「多くてもn人」とわかるのは、n回声がけされてn人の子が前に出るのを見てからです。

 

なんかあまり答えになっていないような気もするのですが、分かって頂けたでしょうか?

4人の死刑囚の問題(帽子の色が赤とか白とかいう問題です)と若干似ていましたね。

 

因みにこの問題を解いた私の感想です。

子供たち、賢すぎる!